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インターネット時評(1回目) ネットと活字媒体との越境 光冨郁也 インターネット時評を5回分担当することになった。たぶん、インターネットの詩について書けばよいのだろう。 インターネットはパソコンとネット接続できる環境があれば、利用することができる。家にパソコンがなくても、たとえばネットカフェで利用できる。携帯電話から、ネットのサイトを見ることもできる。あるいはたとえば、携帯電話で書いた詩を、携帯電話で、ブログや投稿サイトに、掲載することもできる。 それらネット詩といったものが、いい作品であるかどうかは、また別の問題でもある。けれども雑誌に載った作品が、たとえ編集者の目を通ったものだとしても、いい作品であるとは限らない。 けれども何がいい作品であるか、あるいは読んでみておもしろいかどうかは、また個々の読み手により判断は違うだろうと思う。 文学観や詩観、芸術観や哲学・思想観、宗教観・信仰観、体験やイメージ、美意識や美学、そのほかによるものである。 だから、たとえば、ネット詩であるからどうであるか(軽視)、活字媒体詩であるからなんであるか(つまらない)、とかそういったことは、私見だが、無意味である。 詩をネットであるからとか、活字だからとかで、区分けするのは、そして互いに軽視したり敵対視したりするのは、おかしな話しである。が、この下書きの2006年秋の時点では、そのような言動がネットと活字の両陣営ではまだあったようである。が、そもそもそのような対立の構図のようなものも、わたしから見れば、おかしな話しである。ようするに、発表のメディアが違うだけで、同じ詩であるのに、という考え。 活字媒体に置かれてある詩はネットにも発表されるべきであり、ネットに置かれてある詩もまた活字媒体に掲載されるべきであり。そうやって、相互補完関係であるべきで。そしてそれはすでに行われつつあるのだが、もっと盛んになるべきである。越境しましょう。 ネット詩は双方向である。だれかが、作品を書く。それをサイトやブログや掲示板に掲載する。それに対して、感想や批評のコメントがある。それに作者が返事をする。それはたとえば、「共感します」「おもしろかったです」「つまらない」といった一言の短文から、現代思想や文芸批評をふまえた高度な長文まで、さまざまなレベルの意見ややりとりが行われる。早ければ数分、数十分ぐらいで。 ときに友情のようなものが生まれたり、ときにライバルが出現したり、ときに派手なケンカが始まったり。それはそれで、刺激に満ちた、あるいは考えさせられる、あるいは悩みに悩むやりとりの始まりでもある。 そのようなことがいまネットで行われている、そのときを書いていきたいと思う。何のために? 詩を活性化させるためにも。 (詩の雑誌「詩と思想」2007年3月号掲載) |
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